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古墳時代

中間市域は肥沃な遠賀平野に位置していることから古代から稲作が盛んにおこなわれ、弥生時代の農耕文化の伝わりの指標となった「遠賀川式土器」など農耕文化を伝える遺物が多数出土しています。また、古墳時代後期(5世紀末~6世紀後半)には、現在の垣生(はぶ)公園にある垣生丘陵周辺に横穴式の群集墓が数多く作られました。これは「垣生羅漢百穴」と呼ばれ県指定文化財となっています。

 
垣生羅漢百穴 宮田山横穴墓群 瀬戸横穴墓群 中間中学校横穴墓群
 

室町時代から江戸時代

室町時代には麻生氏(現在の芦屋町山鹿を拠点として、八幡西区や遠賀郡、中間市、直方市などに所領を持つ)と宗像氏(現在の宗像市を拠点とし、遠賀川西部に勢力を伸ばす)の両軍がにらみ合い、数度の合戦によっても決着がつかず、川西を宗像領、川東を麻生領に分割したことが古文書に書かれています。江戸時代には福岡藩の所領になりました。遠賀川の度重なる氾濫を防ぐため、遠賀川堤防の改修と堀川の掘削が始められます。


明治末期から昭和

明治から昭和初期には、この地で発見された石炭が国の重要なエネルギー源となり、炭坑のまちとして筑豊炭田の一翼を担います。石炭輸送には当初、「川ひらた」と呼ばれる舟が遠賀川と堀川を下っていましたが、明治24年(1891)に筑豊本線、明治45年(1912)に香月線が開通すると、鉄道の大量輸送に押され、川ひらたは徐々に姿を消して行きました。人口も増え続け、明治末の4,800人から昭和34年(1959)には46,000人にまでなりました。


石炭によって栄え、石炭と歩んだ中間の歴史。

明治時代に筑豊地域の石炭産業は隆盛を極め、それに伴い中間市も急激に発展していきました。しかし、戦後のエネルギー革命によって次々と石炭産業が衰退すると、中間市内の炭鉱も相次いで閉山していきます。現在では、石炭や炭鉱の名残はわずかになりました。

 
堀川 JR筑豊本線橋脚 石炭露頭 中鶴炭鉱偲郷碑


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